おもろ探訪(1)  残波岬は沖縄県本島、中部の読谷村にある。北面の絶壁は冬風の荒波を受けてギザギザの鋭く尖った岩肌を出している。 手を触れると切れるほど研ぎ澄まされている。断崖の高さも10メートルを有に越してそびえ立っている。まぶしいほど 青く、なぎの海であるが絶壁にぶつかる波のしぶきは風に乗って、展望壁のところまで揚がって来る。この波の浸食には 自然の悠久の力強さを感じる。残波岬だけではないが沖縄の海は真上から照りつける太陽を強く感じる。そよ風はあって も、直射日光の熱で肌からジリジリと汗を染み出してくる。  現在、読谷村はこの岬を公園化して整備している。正面の10階建てのリゾートホテルを中心して、ゴルフ場、レスト ランが誘致され、ちょうとした都市を構成する。若者や家族で盛り上っている。岬側では延長約2キロメートルの遊歩 道が敷かれている。遠景の本部半島や恩名方面を眺めながらの散歩もいい運動になる。この眺めはいい風景画としても 絶品である。公園に車を置いて、岬に入るとすぐ、目前に大きな玄武岩で作られた「おもろの碑」が見える。公園の方 で遊んでいる親子ずれは多いが岬の方はそんなに人は居ない。アベックや観光客らしき人達が何名づつか闊歩している。  残波岬にはもうひとつ目立つものがある。海の見張り人灯台です。観光名所には不似合いである。リゾートと相まって 新しい名所になるであろうか?  まず、「おもろ探訪」の第1回目のおもろはこの読谷村宇座を取り上げる。おもろには地名や拝所、井戸(ウブガー)、 歌詠みののろ、豪族等の固有名詞が多く出てくる。そこが読まれた風景を見ながら、その地誌的な関心を書いてみたい。 自分の見方と関心は古代のおもろ人達との関心ごとの違いが出るであろうが現今の自分らを見る視座を確認していきたい。  さて、碑の内容は以下に挙げる。 1117  ふるけものろの節  一宇座の泰期思いや   唐商い 流行らちへ   按司に 思われれ  又意地気泰期思い 宇座の豪族泰期が唐貿易を行い、その優秀さを誉め称えたものである。4首の中の1つである。残波岬には船がでる港は ないと思われるので、この港は岬を回って恩納に行くようにして降りるところに長浜の海岸が延びているので、そこから の船出があつたのであろうか?興味が持たれるところである。又、リゾート前の海水浴場になったところがあるのでそこ がその港であるか? 宇座に近いと言えばそこが可能性が高い。  読谷山は点数11となっているので、あと10首あるが自分の好きな唱を何首か挙げておきます。 1120 ぢゃなのよゝきよらが節  一大にしの太郎つ   太郎つ満月や   御肝 栄やかせ  又崎枝の太郎つ 1123 へどのおやのどが節  一瀬名波とむかちがよ   瀬名波ゑけりしやがよ  又瀬名波川坂に   瀬名波石坂に 1124 大にしのたらつが節  一比留のやせの子   命ふつくろに   親穿拍子 歓へて 使い  又今日の良かる日に   今日のきやかる日に 1126 ちやうおやおゑまのしが節  一喜名大庭に   喜名広庭に   てだ清ら 使い  又今日の良かる日に   今日のきやかる日に 以上、地名のあるものを挙げる。地名に読谷崎枝、瀬名波、比留、喜名の古い部落名がみえる。これらが詠 まれた時代は読谷間切が豊かな時期であったろうが、18世紀ごろには間切も窮乏化していたであろう。首 里王府より派遣された「検者、下知役」の報告によれば、1725年「間切不下知」を理由に総地頭(毛氏 座喜味親方盛守)が宮古島に流刑になっている。役人も監督不行届ぐらいで罪びとになるぐらいであるから、 民衆の農民の生活はどんなものであったのであろうか? 当時の状況をくわしく知りたいがその資料を持ち 合わせていない。人口、作物の種類、税、唐商い物はどんなもであるのか? おもろからは豊穣祈願やまつ りの雰囲気はわかるが社会の状況は解らない。これからの参究が求められる。 残波岬の読谷の位置から南には座喜味城址があり、護佐丸の居城である。喜名は役所奉行所のあるところで 首里王府が北部への守りとしての拠点である。ずっと南にさがると比謝川の嘉手納にゆながる。 今後の調査項目 ・ 拝所 ・ 嘉手納、恩納、越来との関係 ・ 座喜味城の役割 残波岬の植生、岬で咲いている草花名と写真を挙げておきます。初夏5月。 かわらヨモギ、サクナ、ヒルサキツキミソー、ヤハタ、グラジオラス、オーバコ、エボシグサ、サリンバイ (ティカチ)、ハマヒルガオ、クサトゥビィラ、ハマスゥキ、クバ、アダン、・・・ 野鳥は  いわカモメ、