おもろ探訪2 第2回目は浦添市の伊祖を取り上げる。おもろさうし巻15には「うらおそいきたたん よんたむざおもろ御さうし」天啓3年葵亥3月7日として、浦添、北谷、読谷のおもろが 収録されている。その中、点数52首が中部の那覇、浦添、宜野湾に関係するものである。 今回訪ねた伊祖は4首で謡われている。取り上げられる地域地名を挙げると、那覇(安里、 天久口)浦添(沢し、親屋富祖、城間、伊祖、浦襲い、棚原)宜野湾(嘉数、謝名、宜野 湾)となつていて、当時の政治の中心である浦添が多い。 ここでの伊祖城は「いしぐすく」「かなぐすく」と呼ばれ、英祖王は「ゑぞのてだ」と呼 ばれていた。又、「いくさもいのおもろ」は4首詠まれている。現在は伊祖公園として整備 されているが、牧港より浦添に上る途中のうっそうとした森が城址となる。北側は宜野湾 と浦添との境界を流れる比屋根川で、田園地帯を作ったであろう土地を望み、南側は浦添 の住宅地区となっている。浦添城址がこの伊祖城址から権力が引き継がれただろうと推測 される。具体的にはまだそこは調べてはないが同様な地理的な条件からして考えられる。 「浦襲い」は世を治めるということで浦添から出ている。伊祖王統、浦添察度王統、そし て、首里尚把志王統も浦添間切からの出である。 そこに、昭和63年3月に碑が建立されている。その内容を挙げる。 1069(671) きみがなし節  一ゑぞのいくさもい   月のかずあすびたち   とももとわかてだはやせ  又いぢへきいくさもい  又なつはしけちもる  又ふよはさけもる 岩波文庫「おもろさうし」下 外間守善より、その訳を挙げる。 「伊祖の戦思い様、立派な戦思い様が月ごとに神遊びをして、千年も末永く、勝れた按 司様を盛りあがらせよ。夏は神酒を盛り、冬はお酒を盛って栄えていることだ」 この伊祖城は英祖王統(1260〜1349)の5代の居城であった。その初代の英祖 王は舜天王統の3代義本王のあとを継いで即位する。1260年から在位40年とされる。 親の代からこの伊祖を中心に栄え、牧港を拠点に貿易によって、富を蓄え、民衆に信頼を 得ることが出来たであろう。おもろより、支配者への讃嘆を挙げてみる。同じ形のものが 3首ある。 1067 きみがなしが節  一伊祖伊祖の石ぐすく   いよやに 襲て ちよわれ 又伊祖伊祖の金ぐすく  伊祖城址は県道に接した公園のこんもりとした森の頂上にある。公園の石畳を上って、 2層目の丘の登り口から入っていく。石組の階段は風化により、乱雑に組みかえられて、 でこぼこになって歩きにくい。あっちこっちに「ハブに注意」の立て板を見るが、道が自 然の石利用で不整備と薄暗い林の中である木の下をいくので、ちょつと不気味である。頂 上の鳥居をくぐりいくと正面に「伊祖之宮」の破風のほこらの建物が見える。中の神体は いくつかの香炉と変哲も無い自然石が置かれている。何の拝所であろうか? 又、そのう しろにウタキらしい拝所もある。本丸はこの後方で大きな岩で囲まれた部所である。 県指定史跡に昭和36年になっている。その案内板から説明をしてみる。 「伊祖部落の北東方に位置し、東西に延びている。標高50〜70メートル。琉球石灰 岩の丘陵上にきずかれた城である。築城の方法は入り口から宮までの階段は切石積みであ り、城壁の組み方は野面積みである。南西側の断崖は自然の石を無造作に積み重ねている。 又、考古学的には城内外からグスク系土器や須恵器、中国磁器が採集されている。」