おもろ探訪3  浦添という名称は「浦襲」、「うらおそい」、「うらそい」、「うらしぃ」、「浦添」と変遷し て変わり現在になったと、「浦添考」の伊波普猷氏は述べている。おもろ研究の言語論から 語源を導き出している。伊祖の英祖も「ゑぞのいくさもい」と呼ばれ、この地域の支配者 であったのと同様に、浦添も「うらおそい」といい、浦添の国を治め、支配する王であっ た。12世紀から17世紀にかけて、どの地域にもそのような豪族、領主がいた。「浦添考」 では「だしまおそう」、「あじおそい」、「天ぎや下おそう」、「国しる」、「島しる」、「世しる」、 「くにもり」、「くにしり」等とおもろの用法で支配者のことを上げています。おもろ巻1 5ではこの「浦襲い」のものが数多く詠まれている。いかに「浦襲い」が慕われて権威が あったのがわかる。その1つと港を詠んだのを挙げる。  1070 あおりやへが節  一浦襲いに ちよわる   聞ゑおわもりや   按司 下司 すだしやり ちよわれ  又世の頂(つぢ)に ちよわれ 1083 へどのしやればたところやればが節  一うらおそいのぢょうぐち   しとぎやよ 漕がせ  又渡嘉敷のぢょうぐち   まきしやよ 漕がせ 浦添は古名として「渡嘉敷」とも呼ばれていた。  浦添城址は伊祖城址から離れること1里半ほど東の方にある。伊祖より高くなった丘陵 の頂点にある。古琉球時代の中心であった。現在の場所は仲間部落の最奥の部にあり、前 田高地と呼ばれる断崖で北側を防御された最強の城であったであろう。北側の展望はす晴 らし物である。はるか遠方残波岬を見とうし、牧港の海を眼窩に望める。又、普天間飛行 場の全景がまじかに見ることができる。東の方は琉球大学病院まで眼窩にはいる。宜野湾 市の真栄原、我如古、そして、浦添市の西原の住宅地帯が目の前に手に取るように広がっ ている。この場所は去る大戦での激線地になり、天然の要塞では4月の開始直後の大戦災 を強烈にうけたところでもある。その為、浦添城址の形もほとんど残っていない。すべて の事物が破壊尽くされてしまった。今、見るものは浦添市の公園化の整備だけである。残 念である。  又、この「浦添」は政治的にも、古琉球時代の要所で首里から中頭方面への街道の分か れ道にもなっている。一方は伊祖城址、牧港をへて、北谷、読谷、恩納へといくルートで あり、現在の国道58号線に重なっている。他方は西原、普天間を通り、越来、具志川、 石川、勝連へつながる、現国道330号線につながっている。この街道は私にも懐かしい 思い出がある。宜野湾並松(ナンマーチ)と呼ばれ、中学時代の学校正門前に数本の琉球 松が残っていた。幅員8尺で、大道で、豊かな田園風景を作っていた。自分の佐真下部落 (ナガサク)の中を突っ切って旧街道沿線の両脇にぎっしりと植えられていた。歴史的に は、尚貞王の世子尚純の命による植付けである。蔡温が三司官時代以前頃で、1644年 には王府の普天間宮参詣行事の利用道路になっていた。それゆえ、この浦添は地理的にも 政治的にも中心になる条件を備えていたといえる。この街道に沿って、政治上の関係も他 間切と深い関係を持っていた。牧港、泊、那覇の3港を有し、宜野湾間切、西原間切、又、 真和志間切まで勢力をのばし、首里の北部も浦添に属したとのことである。首里ももとも とは浦添の圏内で、そこからの分離したのではないのかとのことである。「浦添考」に述べ ている。どの時点に首里が政治的中心になったのか?調べたいものだ。  現在は浦添城址公園になっているが昔の面影は何1つとして残っていない。公園の入口 右手の方に「おもろさうしと沖縄学の父」伊波普猷の顕彰碑と墓がある。1961年8月 建立。顕彰碑より、「おもろさうしの父」の生没は1876年2月20日生、1947年8 月13日没である。享年71歳であった。おもろ研究の開始は「おもろさうし選釈」、「校 訂おもろさうし」の刊行大正14年ころである。伊波普猷のこの著書をもって盛んになる。 他の研究者、言語学者との交流や研究グループとの論議論争も熱が入ってくる。 そして、北側絶壁の下には有名な「ゆうどれ」がある。英祖王と尚寧王の墓となってい る。