おもろ探訪4  「宜野湾市史」4巻を参考にして、「宜野湾のおもろ」について調べて見る。宜野湾間切 は浦添間切からの分離である。1671年に浦添間切の北部、我如古、宜野湾、神山、加 数、謝名具志川、大謝名、内みな、喜友名、新城、伊佐と中城間切から前普天間、寺普天 間、北谷間切から真志喜が割かれ、14ケ村で創立、開始される。おもろ時代にはその域 は浦添間切であった。おもろ総数1554首のうち、宜野湾市に関するものは13首挙げ ることができる。おもろ巻15の43番から52番まで10首と巻5−64、巻13−1 57、巻14−1の3首がその全部になる。地名は嘉数関係(4)、謝名(7)、宜野湾(2) となっている。巻12−53にも宜野湾市の新城(あらぐすく)があるが、内容から入れ ないとのことである。「宜野湾市史」概説から、おもろの内容を分類すると ・ 地方おもろ 725首 47% ・ 神女関係  348首 22% ・ 航海    236首 18% ・ 英雄、トピクス  70首  ・ おもろ歌唱者   83首 となっている。宜野湾市関係から何首か挙げてみよう。 巻14−1 謝名思いは 誰が生んだ子か。 かくも美しく、 かくも見欲しくあるよ。 百按司の、 待ち望んでいた、 庫裡の口を、 謝名思いこそ明けたり。 謝名思いが、 謝名上原に登って、 蹴り上げた露は、 露までも芳しい。 巻15−43 嘉数杜ぐすく 根立て杜ぐすく ナヨクラ 祈って 甘やかせ 今日の吉き日に 今日の輝く日に 新神を祈って 降り女を手摩り手 巻15−44 嘉数鈴鳴りが  天底の黄金(こがねみや)庭に  降り欲しく 見物鈴鳴りが 巻15−52 宜野湾ののろが  伊佐杜に降り給いて  島を統治して  按司襲い(王)に奉れ 根の島ののろが 巻15−49 謝名のヒヤリ思い 立派なヒヤリ思い  掻撫で按司に思われて 謝名の良かり島 海近くあるので とぎやで魚を突く やすで蛸を突く 海も御物 たきやも御物  察度のことは「中山世譜」によれば、1321年に誕生し、1395年に死去したとい う。そして、1350年に中山王となり、1372年明の洪武帝の招諭に応じ、泰期を遣 わす。沖縄のはじめての進貢である。1387年には南蛮貿易を開拓、また高麗と通交し、 李朝朝鮮とも交渉を持っている。察度は浦添での古琉球時代での最初の支配者になった王 として定説となっている。  宜野湾のおもろは浦襲いの「謝名思い」を中心に展開している。「謝名思い」は察度王で あろうと伊波普猷は特定しているが宜野湾の「はごろも伝説」からもそのようになってい る。又、沖縄最古の歴史書である「球陽」や「中山世鑑」にも察度王伝として書かれてい る。真喜志の森の川から大謝名にかけての豪族であろう察度関連についての事が多く載っ ているのである。大謝名の発祥地に深く関係のあるウブガー「」や大謝名の黄金(こがね みや)宮伝説にもその関連が書かれているのである。この地域はおもろ時代前より「ぢゃ な」と呼ばれ、3つの集落があった。その後、行政上、3村の創立領地編成となっている。 歴史的に見ると、多種な変遷を遂げているが結果的に、この地域は「真志喜」、「大謝名」、 「謝名具志川」から「真志喜」、「大謝名」、「大山」へと形成となる。他村は大体変わらず そのままの名称であったが「ぢゃな」は変化して現代に来ている。たぶんによい農地で豊 かな田圃を要していた為の変遷であったのか? 察度王の基盤も此れが大きな要素であっ たのではないか? 私達が小さいときの親から「森川伝説」を聞かされたとき、英雄伝説、 又は成功者の話として、王様までもなった察度のことを覚えている。又、察度は幼少の時 に病気で伏していたとき、クモの巣を張っているのを見て、漁師の網を思いつき、農民の 信望を得たと言うのも思い出す。知恵者は嘉数から謝名の、この地域の古琉球時から興味 のある港=牧港も要していたので、海向こうとの貿易が栄えたのであろう。黄金とは鉄の ことであろうか。  嘉数のスズナリノ嶽=嘉数杜城 嘉数高台の中の嶽であるのか? 破風墓の拝所で北向きに置かれ、自然石が祭られている。 ここが部落の発祥の地と言われているがそうなのか? あまりに粗末で、戦跡の慰霊碑に 比べて現代的な意義の薄れたことを感じてしまう。精神の支えをどこに置いているのであ ろうか?  小禄墓 1953年県指定文化財である。その中の石棺の碑文は沖縄最古の平仮名資料「おろく大 やくもい」になつている。1494年弘治7年である。「浦添ゆうどれ」と構造は同じ造り で洞窟を石室にして、その口を自然石を積み重ねて閉じている。嘉数高台北側を流れる比 屋良川の岸壁の割れ目を利用している。場所は嘉数旧街道を500メートル入り、右手の 外人住宅の森に下りていく。遊歩道を入り5分のところ100メートル、最奥の洞窟の廃 墟墓の中の1つにある。  黄金宮 現大謝名部落東側、大謝名小学校から、さらに東400メートルのところにクガネノ森が ある。たぶん、そこは石取り山であったので、農業はでないところであり、田圃よりも小 高くなっているので、水の便も悪かったと思うが、なんでそこにあるのであろうか?  宜野湾間切の人口 資料を調べて興味を持つたのがあった。人口の増加である。1873年資料から現在まで の増加が50倍にもなっている。130年でそんなにも増えるのであろうか? 1873 年14村、戸数400軒、人口1689名、2004年現在人口87700名、世帯数3 4102となっている。課税人口と考えても20倍にはなるであろうか? 資料から見る 限り、おもろ時代の人口はそんなに多くはないものと思う。一部落30世帯、人口200 名弱ぐらいの集落であったであろうか?