おもろ探訪5                               呉屋 良武   はじめに  「おもろ探訪」とは「おもろさうし」を読んで、その場を訪ね、そこに関する地誌的な 関心ごとについて調べることである。おもろには地名、豪族名、ノロ名、文物等が詠まれ ているので、その内容面から場所が特定できる。歴史、政治、文化、地理について、その 変遷を紹介する。専門でない者が趣味の範囲で「おもろさうし」にアプローチできるのも 良いのではないか? 本校、中部工業高校の設置された場所が由緒ある越来フルウマーイ という場所であった。さらに、近くには、尚宣威の墓、西森御嶽、越来城、池原の石碑= 鳩目銭等、多くの歴史的な事跡がある。これらについて、おもろとの関連から感想を述べ てみたい。       越来の位置 おもろ時代での「越来美里間切」は本島中部、現「沖縄市」に周辺部を加えた地域であ る。この地域は平野部であり、首里王府と北部をわける重要な戦略的位置をもっていた。 北部の監視をし、首里の守りとしての、歴史的にも、複雑な経過がある。豪族が群雄割拠 した時代=グスク時代より、古琉球、廃藩置県、明治時代に到るまで、この地域は王府に 近い王子や血族が按司となって、支配していた。舜天王統、伊祖、浦添、首里王統を得る 時代に到って、「越来美里間切」の取り扱いが歴史を動かし、政治的なドラマを展開するこ とになる。 第一尚氏では尚巴志が南山の他呂毎を亡ぼし、三山を統一(1429)した前後を見て みると、父の尚思紹が、孫の代には尚巴志の子、八重瀬王子が越来按司となっている。 第 五代尚金福王後の王位継承の内乱も越来美里間切が舞台であった。すなわち、志魯(子) と布里(弟)との乱。又、勝連按司=阿麻和利の乱、護佐丸=中城の鎮圧。そして、知花 城の鬼大城(総地頭に任じられる)の鎮圧滅亡、ももとふみあがり(王女)を仲合いとす る三角関係も、この越来でのことであった。又、第二尚氏に変わるときの政変もそうであ る。始祖金丸こと尚円も伊平屋より、国頭をえて、越来に逃げてきて、尚泰久王に認めら れ、中央に推挙される。そして、首里での活躍は幼少の尚徳王の即位に力を発輝する。第 二尚氏になり、尚円死後の王位継承後のごたごたも越来が関係してくる。尚宣威王(弟) が即位すると、聞得大君(姉)、世添御殿(母)、華后(妻)が尚真王(子)を王に就かせ るための権力争いを行い、越来王子として、越来に蟄居させられることになる。 この地域は読谷から石川、金武、具志川、勝連の北辺から南は浦添、宜野湾、西原、首 里をむすぶ線で囲まれた広い地域である。本来の首里王府の財政の支配地域となっている。 第一、第二尚氏とも、この地域の間切が本拠地で、この中心が越来間切である。しかし、 第二尚氏が政権をとると徐々に、この地域の位置も変わる。すなわち、「越来美里間切」は 監視の対象にされ、西原間切(中城王子尚清王)が王家の直接支配地になり、首里へのク ッションとなり、第二尚氏から監視の按司が居座ることになった。越来はますます首里王 府からは遠い存在になる。浦添城の浦添王子(尚維衡、尚真王の長男)さえ、首里からは 左遷の状況に置かれ地方の扱いとなっていた。18世紀になると王府は島尻地方の開拓が 主となり、さらに、窮乏化が進み、権力からも離れることになる。古琉球時代には「おも ろ」に詠まれるほど栄え、活気のあった越来も二度と表舞台には上がれなくなった。「コザ 市史」では、その後500年間歴史から忘れられたと述べている。 越来のおもろ 第5回目は沖縄市の「越来美里間切のおもろ」を取り上げる。全22巻の中で、沖縄市 関係は22首が詠まれている。巻2「中城越来のおもろ」と巻14「いろいろのゑさおも ろ」に集中している。巻2からは30番から46番までの17首と、巻14からは5,2 0、21,22,23の5首である。「沖縄市史」2巻より。その中からいくつかを挙げる。 2−31 うらおそいおもろのふし  一 ごゑくあやみやに           越来の奇庭で   もちなちやる いけいけしや        接待したる賑ゝしさ   くもこ まだま              雲子 真玉に   なわ のちやる ごとごと         縄を貫きたる如し  又 ごゑくくせせみに           越来の奇庭で 14−22 おらおそえふし 一 ごゑくもり おやのろ  おやのろは もちなちへ  いみやからど  御さけや まさる 又 あがるもり おやのろ  越来城は現在の越来小学校にあった。しかし、越来の長老たちの話によると、学校の 東側からコザ十字路辺までの広い屋敷であり、国道造成のとき、積石を切り崩してひいた とのことである。この城は戦国時代の城ではなく、中部圏での政治の中心となり、平地の 城、御殿という形であっただろう。それゆえ、防御を任務とする城は北から読谷山の座喜 味城、越来の知花城、南側の中城城といつた一直線上に並んだ防衛線をしいていた。そし て、古琉球時代、政治と同様な重要さをもつノロ=神女組織の拝所も、この越来城を中心 として、東西南北にあり、西200メートルの部に西森御タキがある。比謝川の上流ナカ タレージ川を南とする小高い丘に川に向かって、3つの御嶽が置かれている。破風造りの 祠の中に自然石の神体が置かれ、右手より西森之御嶽、ウガン西之御嶽、ウガン南之御嶽 と並ぶ、砂岩の岩に名が彫られ、その前には香戸が供えられている。この丘からの見晴ら しはよく、ここで行われたノロたちの行う歌謡は神々しく、神聖な雰囲気で優雅な華美の ある様子であったであろう。 上記のおもろもそれを表している。いくつかある同様な「おもろ」の1つである。越来 城の拝所の祭壇前で、間切の主要な人達が、按司をはじめ、下司、百性等すべての者が集 まって行う祝祭である。五殻豊穣を祈り、護国安泰を祈るものである。祈願を行い民心の 安寧を願ったであろう。そして、神酒がまかなわれ、飲食が振舞われたのであろう。 現在、「西森あがりもり」は公園となり、越来小学校、中学校の放課後の子供たちの歓声 が聞える。又、北側には住宅地の中から首を出した形でこんもりとした丘がいくつかの山 が望められる。見張りの城としては遠くまで眺められるので条件が整えられていたであろ う。又、南側にはジークンヤマが見られ、ここに尚宣威の墓がある。中部工業高校の裏門 から昭和橋のたもとを左側の道に入り、丘の上にある。造りは浦添の「ゆうどれ」や「小 禄墓」と同じで、石積みで蓋をしてある。他とちがうのは入り口の部が1〜2メートルも 上にあり、橋桁を用いてしか入れないことである。又、この川は7つの堰があり、この越 来の田圃の水を供給していた。良好な田圃地帯であったそうである。「世のぬし」が詠われ、 「こぢやひら」からの景色が詠まれる。 2−37  中ぐすくおもろのふし  一 ごゑく 世のぬしの   またちよもい なしよわちへ   これど かほうてだ   ごゑくの あらぎやめ ちよわれ  又 あがる 世のぬしの    2−38 うらおそいおもろのふし  一 ごゑく 世のぬしの   わしのみね ちよわちへ   いみやからど   ごゑくは   いみきや まさる  又 あがる 世のぬしの   こぢやひら ちよわちへ   知花城について 越来城より2km、知花十字路から国道329号線を北へ50メートル、左方へ10 0メートル入る。右手に知花祝女殿内があり、左手にある小高い丘が知花城である。知花 グスクは標高88メートルの頂上、岩山で階段を50段ほど上がり、さらに、大きな岩の 上が10坪ほどの広さの間がある。自然の要塞の城である。知花城については、あまり、 詳しくはわからないがおもろ時代には大きな集落となり、知花焼きの陶器の一大生産地域 になっていた。1374年読谷山の「たちょもい」=泰期が明国と通交したときも陶磁器 が含まれたのであろう。遺跡にも中国製の磁器が多く出土している。東西の海岸を結ぶ中 継地の役割があったであろう。阿麻和利を亡ぼした鬼大城の居城となり、尚円に渡さざる を得なくなり、最後の地として、城裏側に墓もある。知花の華やかな賑わいのある時期の おもろを挙げる。14−5は特に有名なおもろである。貿易で大和文化に接した青年按司 の姿が垣間見られる。 2−45 うらおそいふし  一 ちばな こしだけに      知花後嶽で   あんは かみ てづら       我は神を祈らん   かみや あん まぶれ       神は我を守れ 又 ちばな にしだけに       知花西嶽で 14−5  おとまりがふし  一 ちばな おわる   めまよ きよら あんじの  又 ちばな おわる   はぐき きよら あんじの  又 みはちまき   てぢよく まき しよわちへ  又 しらかけみしよ   かさべみしよ しよわちへ  又 といきゝおび   まやし ひきしめて  又 大かたなよ   かけさし しよわちへ  又 こしかたなよ   いかさ さし しよわちへ  又 ひぎやかわさば   うちおけくみ しよわちへ  又 うまひきの   みちやひきの こたら  又 ましらはに   こがねくら かけて  又 まへくらに   てだのかた ゑがちへ  又 しるいくらに   月のかた ゑがちへ 2004,5,14