おもろ探訪6 恩納松下にちじぬ碑(ふぁ)ぬ立ちゅし      恋しぬぶまでの、ちじやねさみ 恩納岳あがた里が生まりじま      森ん押しぬきて、くがたなさな  恩納村というと恩納ナビーの上記の琉歌が浮かぶ。さて、「おもろ」であれば、どうであ ろうか? それほど有名なものはないように思う。しかし、護佐丸も思い出すが恩納では 名声はなく、中城城に移ってからの歴史的忠臣としてのもので、おもろ時代には祖父の事 跡しか残っていない。久良波大主も山田の発祥の豪族で、詠まれて当然だと思うがそうで もない。護佐丸はその港を利用し、貿易の拠点にして力を蓄えてきた。それは山田が活気 を帯びていたであろうことが推測される。おもろ収録時点ではすたれて、目立つものでは なくなったのではないか? 又、場所としては、山田はなく、金武、恩納、安富祖の地名 がある。「恩納やきしま、安富祖やきしま」の領主のことが詠われている。神あしゃぎで行 われる祝祭のにぎわいでは、この地域で政治的なことよりも、より精神的な集落の予言的 立場にある神女組織の方が重要で、生活に身近であったのであろうか?   山田グスクは読谷村喜納より、北側に走り、ホテルダマラの手前山田部落の国道58号 線を東に入る。100m至るところに小高い岩山がそびえている。石組の城壁もあったが、 座喜味城の城築で持って言ったとのことである。その裾野は山田の旧部落であり、首里王 府時代の旧道が保存されている。首里を起点とする主要3道路の1つである「国頭方西海 道」と呼ばれる旧街道が通っている。現在ではここは多くの史跡や貝塚、集落の跡が残っ ている。この旧街道は国指定の遺跡に指定されたことが新聞に大きく報道された。15世紀 に整備され、1.5kmの街道であり、道幅2.4m、両サイドには松が植裁され、読谷側か ら、真栄田の一里塚、真栄田の御待毛、寺川矼、山田谷川の石矼、比屋根坂石畳、仲泊の 一里塚、唐人墓、高麗墓、そして、護佐丸の祖父の墓、久良波大主の墓等、多くの史跡が 残る。部落も山手より開けたところに移動して、寂しい風景でになっているが、この辺は 当時を垣間見せてくれる旧街道の通過点になっている。  山田谷川の石矼の案内板より    山田谷川に 思蔵つれて浴みて      恋しかたらたる仲のあしゃぎ  山田谷川は山田グスクの森と北の山の谷を流れる川である。現在、中に入ると鬱蒼と薄 暗いぐらいで、谷間を通る矼が架けられ、昼でも暗い。その中を流れて海に流れ出す。近 頃まで恋人たちはその元で恋を語り、水浴びをしていたそうである。当時は水量も豊富で 西海岸の大和浜にそそいでいた。  「第17巻 恩納より上のおもろ御さうし」より、国頭地方および付近の離島のおもろ を収録する地方おもろの巻である。その中の1つから、恩納を詠んだものを挙げる。  17−1177 いちのなよりきよが節  一 恩納やきしまよ 安富祖やきしまよ だりす 鳴響み 聞かれゝ  又 恩納 居てやちよも   安富祖 居てやちよも  又 下の鳴響みいくさ   下の聞かれいくさ