おもろ探訪9 中城のおもろさうしは「中城城」を中心とするものである。「中城城」は浦添、首里城と 読谷山の座喜味城、越来の知花城、や勝連城に挟まれた位置にある。それゆえ、戦略的地 位は不安定であったであろう。 「中城村誌」の中で面白い説を述べている。先城主が空け捨てた城に護佐丸は主となり、 城の増築をしたそうである。「中城城」は築城様式からして違う2つの様式になつている。 先城主と護佐丸城主の築城があつたことを述べている。また、護佐丸が城主となるまでの 中城の地域の状況はどうであったのであろうか? 中城城の周辺には数多くの集落があり、 これが周辺に広がり散っている。城にいた城主はどこに移動したのであろうか?もしかし たら、周辺の集落がその末裔になるのではなかろうか? 特に「津覇」部落の変遷に興味 が持たれる。「中城城」の台地から海に沿って移っている。城から逃げているかのようであ る。また、城の背景?南側に位置する「新垣」部落についても関心がもたれる。 護佐丸は中城に来て、一時は城前に居て、先城主に圧力を加えていたのであろうか? そこから城主になったのであれば、無血革命で前もって話し合いでの交替になったのであ ろう。史跡や歴史に残跡がないのであれば、そうであろうと推測されるであろう。もとも と、護佐丸は恩納の出自であるので、中城での信頼感は首里王府からはあっても、民衆に はなかったのでは? 後に王府はアマワリの具申により亡き者とした。それをうなずける ことではないか? また、当時の古代の民衆は親しまれた指導者はおもろに詠まれている であろう。古琉球の研究者 伊波普猷氏はそのおもろの解釈から、アマワリの評価を書き 換えたが、同様に、護佐丸の評価も再考が必要であろうか? その附箋の一つは次の点で あろう。 @ 地域部落との関連は? A おもろの中の護佐丸の捉え方は? B 歴史的事跡の検証は? C 中城での護佐丸の伝承は? 中城おもろ29首の中の16首は中城城に関するもので過半数を占めている。他は安谷 屋城が4首、屋宜の御嶽の神女3首、新垣村の御嶽の神女、新垣城2首、吉の浦の風景、 安谷屋の若松、安谷屋の神女 計29首となっている。 1.おもろくさりおろちえかふし 一きこゑ、なかぐすく  あがりに、むかて  いちやぢや、たてなおちへ  たくに、おそう中くすく 又とよむ中くすく  てたか、あなに、まかて  名高く鳴り響く中城の城よ 東に向かい合って 木造りの門を建て替えて  わが国を治める 中城の城だ 6.おもろ件が節 一聞え中城  上の百太郎の  思って、相して来ば  石と金と  合わせてこそ戻せ。 又響む中城 13.くに中のしよりもりくすくかふし 一きこゑ中くすく、          聞こえ中城  とよむなかくすく          響む中城  あち、かすか、てもち、       按司数が保ち  中くすくよせれ           中城、寄せられい。 又きこゑ、いろめきや、        聞えいろめきや  とよむ、いろめきや         響むいろめきや 又おれつむか、たては、        折端が立てば  わかなつか、たては         若夏が立ては 城主について 19.きたたんよのぬしのふし 一やきから、のほる、  したたりや、よろい、  たるか、きちへ、にせる、  あちおそい、てたす、  めしよわちへ、にせれ 又ひかから、のほる 屋宜村は良港であり、中城城の出口である。中城城の豊かさの入り口であった。 22.うらおそいおもろのふし 一あらかきの、くにの、ねに、  けよ、しよる、つかい、 ももとの、つかい 又天つきの、しまのねに 地方按司の城を「国の根」、「天継」と称していた。 25.うらおそいおもろのふし 一あたにやも、しらたる、  きも、あくみ、しらたる  この、いくさ、  せちやて、もとせ、  又おにのきも、しらたる、 よらせ、きみ、しらたる 又やなはしきや、  へともいか、かたな、うち 安谷屋城について、安谷屋城は普天間川の中流、宜野湾市と北中城村との境界にある。 石平で米軍の本部になっているところにある。 現在から見れば、狭い地域の場所であるがそこにある部落の変遷を見ていると一つ一つ の部落人のロマンを覚えてしまう。人ひとりの身からすれば、膨大な地域であろう。今は 乗り物があるのでその移動はやさしいが古代人たちには途轍も広い場所であったであろう。 以前、聖徳太子を読んだときと同じ感覚を感じた。飛鳥地方での戦で、のびのびと活躍す る太子の姿が思い浮かんだ。奈良飛鳥より吉野山にかけての山脈を自由に飛び跳ねている 様子が思い出された。今、中城城の上城壁から見下ろす風景は護佐丸や地域の有力豪族の のびのびと活躍している様子が聖徳太子と重なってきます。